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カルロス・ゴーン - Carlos Ghosn - vol.2

兵庫三菱Web編集局 | 記事 : A.Yamamoto
配信日 : 2018年7月25日 11時00分 JST

編集局の山本です。 カルロス・ゴーンの半生に迫る第2回目。前回は、ゴーン誕生から学生時代までをご紹介させていただきました。今回はその続き。後に世界的な経営者となるゴーンのビジネスマンとしての一歩を踏み出すところからの紹介です。

人生を変える一本の電話

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カルロス・ゴーン24歳の時、早朝に一本の電話がかかってきました。この電話がゴーンの人生を変えることになります。その電話の相手は、フランスのタイヤメーカーミシュランで働いていたヒダルゴという男。いわゆるヘッドハンティングでした。

仏ミシュラン社からの誘い

ミシュランは、フランスに本拠地を構える世界最大のタイヤメーカーのひとつです。当時のミシュランはブラジルでのプロジェクトを考えており、ポルトガル語も話せて、フランスで高度な教育を受けたゴーンをプロジェクトチームの一人に適任だと考え、ゴーンに白羽の矢を立てました。

学生生活に終止符。ビジネス界へ

この時のゴーンは、博士課程を考えていたうえに、もぐら学級での数学講師としての収入も十分にありました。そのため企業に入社して働くという考えはまだありませんでした。しかし、ブラジルで生まれ育ち、特にリオデジャネイロを「故郷」と思っていたゴーンは「将来、ミシュランのブラジル現地法人の一員といて働くことができるのでは」と考え、学生生活に終止符を打ちミシュラン入社を決意しました。

仏のタイヤメーカー大手ミシュランに入社

1978年、ゴーンはミシュランで働くことを決め、研修のため、本社のあるクレルモン=フェランへ向かいました。研修はインストラクターによる指導が3ヶ月間にわたり、生産、営業、販売部門のトップからの講義や、実践的な訓練も行われました。訓練の課題は「社内で実際に起きている問題を自分で考えて解決する」というもので、この訓練を通じて、課題解決能力、コミュニケーション能力などをインストラクターから評価されるものでした。

最年少での工場長抜擢

研修終了後にゴーンが配属された実地訓練先は、製造部門があるル・ピュイ工場でした。ミシュランとしては、ゴーンに研究所で働いてもらいたかったのですが、ゴーンにはブラジルで働きたいとの想いだけでなく、入社前から決めていたことがありました。それは、会社の全体的な部分で貢献したいということ。製品開発に関わること、経営についてより深く学ぶこと、そのためには製造部門が最適だと考え、その部門を希望したのです。「タイヤの専門家になるためにミシュランにきたのではない」という、ゴーンの強い希望から製造部門で働くことが決まりました。そして、ゴーン26歳のときに、工場長に抜擢。入社してまだ3年目、史上最年少での工場長抜擢でした。

フランソワ・ミシュラン会長からの呼び出し

工場長抜擢から2年後、創業者の孫であるフランソワ・ミシュラン会長から呼び出しがかかりました。歴史ある企業であるミシュランのなかにあって、当時まだ27歳のゴーンを工場長に抜擢するなど先進的な経営手腕を発揮していたフランソワ・ミシュラン。フランソワは、ミシュランが買収した同業メーカーで、業績に問題を抱えていたクレベール社の再建をゴーンに託しました。再建にあたっての条件のひとつは「クレベールを見捨てるという選択肢は無い」ということ。そのために最善の方法での再建案を見つける必要がありました。そして、ゴーンはクレベール社再建のため、本社財務部門へ赴任。最高財務責任者であるベルーズ・シャイード=ヌーライの下で、最先端の企業財務の考え方と実務を学ぶことになりました。

待望のブラジル凱旋、そして最大市場米国での挑戦

巨額の負債を抱えるブラジル事業を3年で黒字化

入社7年目の1985年6月。CEOであるフランソワ・ミシュランの人事でゴーンは両親や姉妹が住むリオデジャネイロへCOO(最高執行責任者)として赴任し、損失が膨らみ続けていたブラジル事業の立て直しを任されることになりました。

「利益をあげるということからすれば、理想には程遠い状態でした。しかし、何もしなければ何も始まりません。それに、ブラジルの事業がこのような危機に瀕しているからこそ、本社は急いで私をこの国に派遣したのです。そう考えると、むしろ嬉しいくらいでした。」

当時のブラジルは金融危機、政情不安を抱え、さらにハイパーインフレで業績は最悪の状況でした。ミシュラン本社としてもブラジルは最大の懸念事項でありましたが、ブラジル市場の可能性を信じていたゴーンは焦らず、問題をひとつずつ解決していきます。一番の問題であった政府との物価統制を巡る価格交渉を粘り強く進めるなど改革を推進。結果を求め苛立つミシュラン本社からの圧力も大きくなるなか、ゴーンは「ブラジルのことはこちらで責任を持ちますからお任せください。結果で判断してください」と、ブラジルの状況を知らぬ人間が余計な口を挟むなと本社からの圧力を抑えます。そして、就任から3年後、ブラジル法人はV字回復を遂げ、ミシュラングループの中でも一番の売上利益を上げる子会社へ成長することになります。その結果を見ていてくれたのがフランソワ・ミシュラン。フランソワは、世界最大市場である北米での事業の命運をゴーンに託します。

CEO(最高経営責任者)として米国へ赴任

ブラジルでの成功を収めたゴーンの次なる新天地は米国。89年2月、ゴーン35歳の時に北米ミシュランCEO(最高経営責任者)として赴任しました。ミシュランの総売上高のうち約4割は北米事業。ミシュランにとって北米ミシュランは重要な存在でした。最大シェアを誇る米国グッドイヤー社、そして成長著しい日本ブリヂストン社ら競合に対抗するためには北米でのさらなる成功は必要不可欠だったのです。

「北米ミシュランは危機に瀕していたわけではありません。しかし、本社はもっと業績を上げることを求めていました。」

ユニロイヤル買収とコストカット

着任してからの最初の仕事は、米国同業大手ユニロイヤル・グッドリッチ買収案件をまとめることでした。1990年に買収は無事に完了。ゴーンがまず着手したのはコスト削減でした。ゴーンの代名詞でもある「コストカッター」の呼称が授けられたのはこの頃です。そして、ミシュランはもともとはフランスの地方企業。買収による外国企業との融合は初めての挑戦でした。異なる文化や習慣のある2つの企業を統合するのはとても難しく、フランスとアメリカそれぞれの文化や習慣を尊重し、両社それぞれの得意分野を活かすための経営戦略を採りました。

「ミシュランとユニロイヤル・グッドリッチというそれぞれ違った文化を持った二つの企業は、その文化に基づくお互いの習慣を検討し、うまく取り入れることによってひとつに融合したのです。その結果はまもなく出始めました。(中略)もはや心配することはありませんでした。会社の業績は拡大の一途をたどったのです」
経営者ボブ・ルッツからの影響

米国でミシュランは巨大なサプライヤーとしての存在感を高めていきます。そして、CEOとして供給先である各自動車メーカーとの関わりも深くなりました。フォード、GM、クライスラー。日本のトヨタ、ホンダ、三菱、日産、欧州や韓国メーカーとも関係を築いていくことになります。そして、特にクライスラーの伝説的な人物である会長のリー・アイアコッカ、社長のボブ・ルッツからは経営者としての在り方において多大な影響を受けています。

「ルッツが経営を語るときに見せた、この肩肘張らず、謙虚で、人間味に溢れ、地に足がついた態度に、私は強く心を打たれました。人に何かを話すときには、物事をありのままに話すこと、とりわけ、聞き手全員が理解できるようにわかりやすく話すこと、それが大切なのです」

18年に及ぶミシュランでの冒険に終止符

96年、ゴーンはミシュランでの経歴に終止符を打つことになります。ゴーンは42歳という若さでミシュランという巨大企業のNo.2にまで登りつめました。しかしミシュランは同族企業であり、次のCEOの最有力候補はフランソワ・ミシュランの末息子であるエドワール。ちょうどその頃、ゴーンはヘッドハンティングのオファーを受けます。フランスの自動車メーカー大手ルノーの社長であるルイ・シュバイツァーが後継者を探していてゴーンがその最有力候補であると。そして、ゴーンはこのオファーを受け入れることになります。

「ルノーからのオファーを受けたのは、いつかトップになりたかったからではない。新しいことを学び、挑戦したかったのだ。以前から多くのサプライチェーンを巻き込む自動車事業に興味があった」

ゴーンはミシュランでNo.1になりたかったわけではありません。同族企業のミシュランでは、ミシュランの名を持つ者が後継者となるのは自然なことで、一族の人間でなければ決してナンバーワンにはなれない。そんなことはゴーンにはわかりきっていたことでした。それよりも、長年、サプライヤー側として携わり雲の上の存在であった自動車メーカーでの新しい挑戦を選んだのです。

18年間仕えたミシュランとの別れ

ゴーンはこの決断をすぐにミシュランに伝えました。18年間ミシュランに仕え、若い頃からほとんど息子同然に信頼してくれた人へ別れを告げるのはこの上なく辛いことでした。いつかこの時が来ることを予期していたのでしょうか、フランソワはゴーンの話を落ち着いて、静かに聞いてくれたそうです。

「その時は胸に迫る思いがありました。私がよくよく考えた末に、その決断を下したということは、フランソワ・ミシュランもおそらくわかってくれていただろうと思います。もしそうなら、私の決断を理解し、また認めてくれていたのでしょうか?それはわかりません。しかし、その時、私ははっきりと言ったのです。この先、ミシュランにとっても、そして、たぶん私にとってもそのほうがプラスになると・・・」

18年間仕えたミシュランの企業文化についてゴーンはこう語ります。

ミシュランには何よりも、"謙虚の文化"が根づいています。そして、その文化のシンボル的存在が、フランソワ・ミシュランその人だったのです。部下に対する配慮、製品やその品質の重要性、長期にわたるヴィジョン、タイヤを買ってくれる顧客、とりわけその取引先である大手メーカーのニーズを満たす義務があると考える誠実で謙虚な態度。ミシュランが持つそういった企業文化、そういったかなりはっきりとした特徴は、すべてフランソワ・ミシュランから来ているのです。

今回のまとめ

ミシュラン時代
  • 1978年(24歳) - 仏のタイヤメーカー「ミシュラン」 入社
  • 1980年(26歳) - ル・ピュイ工場 工場長就任
  • 1982年(28歳) - クレベール社再建のため、本社財務部門へ赴任
  • 1985年(31歳) - ブラジル・ミシュラン COO(最高執行責任者)として赴任
  • 1989年(35歳) - 北米(米国)・ミシュラン CEO(最高経営責任者)として赴任
  • 1996年(42歳) - ミシュラン退社 ルノーへ

18年にも及ぶ挑戦でミシュランを世界的なタイヤメーカーへと躍進させたカルロス・ゴーン。そのゴーンのボスであったフランソワは1999年にCEOを退任。その後もフランス財界での影響を与え続け、2015年4月に亡くなりました。まだ若かったゴーンを要職へと引き上げたフランソワの慧眼。そしてそのフランソワの個性をそのまま体現したかのようなミシュランの企業文化。これらがあったからこそゴーンは頭角を現し、若くしてそして短期間でミシュランの実質No.2にまで登りつめました。そして、フランソワはゴーンがミシュランに入社してまもなくのころ「本当の競争相手は日本のメーカー、ブリヂストンだ」とことあるたびに言っていたそうです。そのブリヂストンは2018年現在、世界第一位のダイヤメーカーとして君臨しつづけています。

世界のタイヤ市場シェアランキング 2016年

メーカー名 / シェア率

  1. ブリヂストン Bridgestone / 14.6%
  2. ミシュラン Michelin / 14.0%
  3. グッドイヤー Goodyear / 9.0%
  4. コンチネンタル Continental / 7.1%
  5. ピレリ Pirelli / 4.2%
  6. 住友ゴム(ダンロップ) Sumitomo / 4.0%
  7. ハンコック Hankook / 3.3%
  8. 横浜ゴム Yokohama / 2.8%
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ミシュラン

ミシュラン(仏: Michelin、フランス語発音: [miʃlɛ̃])は、フランスに本拠地を持つ世界規模のタイヤメーカー、世界企業である。世界で初めてラジアルタイヤを製品化した実績を持ち、長年にわたり世界最大のタイヤメーカーであった歴史を持ち、2005年にブリヂストンに抜かれた後も世界第2位の売上を保っており、グッドイヤー社よりも上位である。 ミシュラン社は「ミシュランガイド」という、覆面調査での「三つ星」評価付きの、(当時として)非常に画期的なドライブ・ガイドブック(旅行ガイドブック、レストラン・ガイドブック)を発行したことや、それが現在にいたるまでガイドブックのひとつの頂点として存在し、人々によって支持され、改訂・発行されつづけていることでも世界的に知られている。(wikipedia - ミシュラン -

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